玉置神社神域と一の鳥居再建
玉置周辺村有林地は玉置神社領だった
十津川村は林野庁主導のもと、経済効率の良い大量伐採を目的として、奈良県基準を超えた広幅作業路網を開設、伐採搬出作業の大型機械化を推し進めてきました。吉野郡の他の町村では自伐型林業を推奨しているところも多く、十津川村は特異な状況になっています。それを可能にしているのが、村が自由に施作を展開できる、私有地の絡まない広大な村有林の存在です。(民有林は地主が細分化されていて故人名義のままの場合もあり、機械化の前提となる作業道開設自体が容易ではない。)
私有地が絡まない理由は、玉置山周辺地域の村有林地は全て元玉置神社領であったからです。
上記の神域図は、神社表参道のある南面に限定している。境界は、北山川の支流となる玉置川水系の分水嶺。玉置山北方の高滝集落近くにも一の鳥居跡はあり、広大な神社領はその方面にも展開していた。この神域図は歴史的に住民意識で受け継がれてきた範囲で、元神社領、玉置川共有地、民有地も含まれている。(神域図をクリックすると拡大します)
玉置は明治維新時、広大な社領を有していました。その後神仏分離にともない神社領と寺社領に分割され、後に寺社領は私有地となり、約半分が神社領として受け継がれました。幕末、十津川郷士は京都に出て勤皇運動に従うこと数年に及んだものの、維新後十分な恩賞を得ることもなく、失業者続出、村は疲弊していました。十津川郷は明治20年(1887)村の疲弊を救うため政府から得た士族授産資金3万円の貸与を元に神社領を舞台に産業復興の植林を展開。こりかき山・北又山554町歩、300万本の杉桧の植栽を完成させました(当初の計画では1082町歩に725万本の植栽)。後年この山林は勧業山と呼ばれ村の基本財産となりました。玉置山頂近くに勧業山碑が残されています。
その後もこの地域での植林は進み、戦後までの間に神社領はほぼ全て管理を任されていた村の名義となったようです。現在、玉置神社に残された社領はわずか3町歩となっています。
一の鳥居再建 広大な神域の入り口
十津川村南端の竹筒から峠を越え、玉置神社に至る古道は「熊野街道」と呼ばれ、かつて玉置への主要な参詣道でした。峠には杉の巨木と玉置神社一の鳥居があり(国土地理院地図に明記。本殿への直線距離約4キロ)、明治維新直後まで茶店も営まれていました。十数年前まで残っていた白木の鳥居は、その後崩れ落ちたまま放置されていました。今回の林業施策で鳥居のすぐそばに幅約5mの作業道が開設され、熊野街道は寸断されてしまいました。街道が消失した場所もあります。
令和元年(2019)5月、作業道工事に携わった十津川村森林組合が再建奉納し、玉置神社による竣功清祓式の神事が執り行われました。森林組合長は「参詣の道は山仕事の道でもある。鳥居の再建を出発点に、古道を再整備して観光振興にもつなげたい」と語っています。
鳥居再建の意味
かつて、鳥居は神社の入り口にあたり、その内側は神域とみなされていました。鳥居を抜けると玉置山の全容を遥拝でき、玉置伏拝(ふしょがみ)の地名も残されています。鳥居の再建は、玉置神社領が村有地に変わり、その村有林で林業施策が展開されていても、鳥居の内側はこの先も神社の神域地であることには変わりはない、という村民認識の表明であると受け取ることができます。
栂嶺レイ著「誰も知らない熊野の遺産」(ちくま新書)2017.8 刊
竹筒から一の鳥居を通り、玉置川・玉置神社に至る表参道が「幻の玉置街道」として紹介されました。この本の出版により、玉置街道への関心が高まり街道を歩く人も増え、一の鳥居再建への大きな力添えとなりました。2018年9月 「玉置の世界遺産を守る会」と大字玉置川は、役場住民ホールで栂嶺レイ講演会「玉置神社を中心とする隠されたロマンの道と新観光モデル」を開催しました。その内容は翌年2019年元旦の熊野新聞特別号で「ロマンチック熊野街道」として紹介されています 。